2020年2月23日(日)主日礼拝  

聖書:ローマの信徒への手紙 10:9~13(新共同訳)

 

 

 神はわたしたちを罪から救いたいと願っておられます。罪を犯したため、神と共に歩めず、死に囚われてしまったわたしたちを、死から解放し、神と共に歩めるようにしようと願っておられます。

 

 神は救いのためにご自身の御子、イエス キリストを遣わしてくださいました。罪の支配からわたしたちを解放し、イエスご自身がわたしたちの主となるために救いの御業を成し遂げてくださいました。ご自身の命を代価としてわたしたちの主となってくださいました。日本キリスト教会信仰の告白も冒頭から「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリスト」と、イエス キリストがわたしたちの主であってくださることを告白しています。

 

 このイエス キリストこそわたしの主であってくださる。わたしは主のものとされている。わたしのすべてはイエス キリストと結び合わされている。わたしはキリストにあって神の民、神の子とされている。これがわたしたちの救いの核心の部分です。

 

 この救いに与らせ、神の民として新しく生きさせるために、神は「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えに」(1コリント 1:21)なりました。宣教を通してイエス キリストに出会い、イエス キリストが救い主であることを知るように、信じるように導かれたのです。

 

 そしてきょうの箇所です。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(9節)。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(10節)

 9節で語ったことを10節で、更に簡潔に、神はこのようにして救われるのだと確認するように語ります。9節でも10節でも「公に言い表し」と「信じる」と言われます。

 「公に言い表し」は他の訳では「告白する」と訳されます。信じることと告白することが一つとなって語られます。神は、救いの御業を信じて、神の愛と恵みを受けつつ神と共に生きることを願っておられます。神との間に「信じる」という関係が築かれることを望んでおられます。そして、神にかたどられた者として言葉が出来事と成るように、神が「光あれ」と言われたときに「光」が現れたように、信仰を告白したときに、救いが出来事として現れるようにしてくださったのです。神の救いの業の中で、言葉が救いを生み出すようにしてくださったのです。

 

 神がこのようにしてくださったので、わたしたちの教会は告白を重んじます。

 告白するという言葉は「ホモロゲオー」というギリシャ語で「同じ言葉を語る」という意味です。神が成してくださった救いの業に対して「神はイエスを死者の中から復活させられた。こうしてイエスはわたしの主となってくださった」と一つの告白するのです。この一つの告白、同じ言葉によって、神と結び合わされ、救いの御業の中でわたしたちも結び合わされるのです。

 わたしたちの信仰は一人ひとり違います。けれど救いの御業の前で、同じ信仰告白の言葉が共有されるのです。礼拝において、聖書の解き明かしに対して「アーメン(その通りです。真実です)」と同じ言葉で応答し、日本キリスト教会信仰の告白、あるいは使徒信条を共に告白することで神に応答します。神の救いの出来事が、性格も考え方も違うわたしたちに同じ言葉を与え、救いへと招き入れてくださるのです。神が、信じることを造り出してくださり、救いの御業が救いを生み出す言葉を与えてくださるのです。

 

 ここで気をつけて頂きたいのは、聖書は洗礼を受けたら救われるとは言いません。わたしたちは洗礼という儀式を受けることによって救われるのではありません。洗礼、そして聖晩餐は、救いを指し示すものです。救いを信じるために与えられたしるしです。しかし、救いそのものではありません。聖礼典という儀式によって救われるのではありません。わたしたちはイエス キリストによって救われるのです。イエス キリストこそが救いなのです。

 神は、救いの御業を通して、イエス キリストが救い主であると信じる、神の愛を信じるという信じる関係を造り出してくださいました。そして信じたことを告白し、言葉が出来事となるという神にならう神の民、神の子としてくださったのです。

 神は「信じる」ことと「告白」を通して、神ご自身、神の救いの御業と一つに結び合わせてくださったのです。

 

 ここでパウロはイザヤ書を引用します。「主を信じる者は、だれも失望することがない。」(イザヤ 28:16)なぜパウロはこの言葉を引用したのでしょうか。それは、どうしても人は目に見える確かさを求めてしまうからです。割礼であったり、お守りであったり、洗礼も含めた儀式など、目に見える確かさです。

 救いの確かさ、根拠は、わたしたちの側にあるのではありません。「洗礼を受けたときよりも、信仰がさめてきているから、洗礼を受けたときほど救われていないと思う」ということではないのです。救いは神の真実によるのです。

 救いは、人間の側に確信を求めようとすると、律法主義になっていきます。人間の業で救いを測ろうとしてしまいます。9〜11章はイスラエルの救いについて書いているので、律法主義的な信仰の中で育ってきた人たちに対して語っています。神の側に救いの確かさがあり、神は真実なお方です。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない」(ヘブライ 13:8)真実な救い主です。だから神を信じるのです、神を信じて大丈夫なのです、と伝えたいのです。だから旧約の預言者の言葉を引用して「あなた方もそう聞いてきたではないか」とパウロは言うのです。

 

 ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ、日本人であれ、信じている人も信じていない人も、すべての命は神が造られたもの。「すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みに」(12節)なるのです。

 

 救いについて、罪人は人間の論理でいろいろなことを言いますが、救いは神の側にある事柄です。ですから、神の御心、神の御業から聞いていかねばなりません。そこでパウロは最後にもう一度旧約(ヨエル 3:5)を引用して語ります。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(13節)のです。

 

 神は、救いを求める者に、信じることを与え、告白によって神に応答する者としてくださいます。神は、救いを求める者に、共に生きることのできる恵みを与えてくださいます。「主の名を呼び求める者はだれでも」神が救ってくださるのです。

 

 

ハレルヤ

 

 

父なる神さま

 あなたご自身が、信じることができる存在となってくださったことを感謝します。どうかあなたご自身に支えられて救いの道を歩ませてください。あなたとの交わりを喜び楽しむことができますように。

イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン