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「約束の聖霊を待て

 2024年4月28日 復活節後第4主日

聖書箇所:列王記上    3章 1節~15節

     使徒言行録   1章 1節~ 5節

         日本キリスト教会教師  富樫史朗

 

 今日からは5月19日のペンテコステ聖霊降臨日を前にパウロの伝道旅行の同行者で異邦人の医者ルカによる福音書の続編、使徒言行録の最初の箇所から聞きたいと思います。

 原題は「使徒の行いと言葉」です。旧約聖書では最初の五つの書物を律法と呼び、神が選ばれた一人のイスラエル人モーセを通して主なる神が行われたことと主なる神の言葉が記されていますが、新約聖書でそれと対応するのが主イエスの言行録であります四福音書です。そして旧約聖書では五書を受けてモーセ死後のイスラエル民族のカナン定着の歴史を述べているのがヨシュア記ですが、新約聖書でも主イエスの行いと言葉が記されているのが新しい律法としての福音で、主イエス昇天後の新しいイスラエルとしての教会の歴史を記しているのがこの使徒言行録であると旧新約聖書の対応関係を指摘されていますが、わたしも同意します。

 そもそもなぜ天使ガブリエルはマリアに対して生まれる神の子を「イエスと名付けなさい」と言ったのでしょうか。そこにはモーセができなかったカナンの土地への侵入と土地取得をモーセの後継者ヨシュアが成し遂げたように、モーセができなかった天国への道を開くことをヨシュアのギリシア語名で描かれたイスラエル人イエスが自ら十字架にかかることによって全人類の罪を贖ったことで成し遂げたのですから、イエスという名前には「モーセに優る者」の意味があると思います。だから、モーセ・キリストではなくイエス・キリストなのです。

 今日の新約聖書の冒頭にはルカによる福音書の冒頭と同じく「テオフィロへの献呈の言葉」があります。「テオフィロ」とは「神を愛する者」もしくは「神の友」の意味するギリシア語の名前です。ローマ帝国の実在した高官とも考えられますが、架空の人物とも考えられています。使徒言行録は当時のギリシアやローマでよく行われた献呈本の様式を取ってローマ帝国の一人の高官に対して、キリスト教がどのようにして帝国内に広まったかを説明しているのです。まず先に著したルカによる福音書では「主イエスが行い、教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」と述べています。ルカは主イエスがお選びになった使徒たちに対して「聖霊を通して」指図されたと言い、主の復活と昇天と聖霊降臨の後はその業が十二使徒をはじめとする弟子たちに受け継がれたことを述べます。それから著者ルカがこの続編で何を述べようとしているかを述べるのです。それは3節以下で「主イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。』」つまり本書では聖霊降臨の出来事とその後の教会発展の歴史を述べるのです。ですから、テオフィロと何の関わりもないわたしたちには関係ありません、というふうには考えないでください。かえって聖霊は皆さん一人一人を捉えて信仰を起こし、伝道させるのです。

 今日の新約聖書には、ルカによる福音書最終章の第24章には記載されていないことですが、復活された主が「四十日」にわたって姿を使徒たちに現されたことが述べられています。「四十」というのは聖書では完全数の一つで、エジプトを脱出したモーセたちが荒野で放浪して過ごした四十年間やヨハネから洗礼を受けた主イエスが聖霊の導きにより荒野で悪魔の試みを受けられた四十日間のように、神が最初から計画された期間を言います。神のご指示によって、主は復活後に使徒をはじめとして弟子たちにたびたび姿を現され、コリントの信徒への手紙一第15章6節によれば五百人もの弟子たちに同時に姿を現わされたこともあったことが述べられています。そして、復活された主イエスは神の国についてお話しになったと言うのです。わたしたちはもちろん、主が地上の生活をしておられ、昇天された時から二千年後に生を受けた者たちですから、主の言動も使徒たちの言動も直接、見聞きすることはできませんが、聖書を通してそれを知り、信じることができます。しかし、わたしたちが聖書を理解し、神を信じることができたのも聖霊の導きのお陰なのです。そういう意味で、聖霊を求めることがどれほど大事なことかがお分かりいただけると思います。

 そして、今日の旧約聖書に選びましたのは、列王記上第3章1~15節です。古代イスラエル王国のダビデ王の子ソロモン王は即位に際して、エルサレムに神殿がまだなかったので、聖なる高台の一つがあったギブオンへ行き、その祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげました。その夜、主なる神はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」とおっしゃいました。ソロモンは答えました。

9節以下「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」

 主はソロモンのこの願いをお喜びになった。神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」ソロモンと言えば、知恵と富が頭に浮かぶのは、この時の神の約束の結果だったのです。また、最初のエルサレム神殿を建てたのもソロモンでした。しかし、彼は最初からエジプトの王女の婿となったように、主なる神への信仰を貫くよりも、周辺諸国との関係を大切にするあまり、多くの王女たちと婚姻関係を結び、他国の偶像を取り入れて偶像礼拝をすることを厭いませんでした。その結果、彼の死後、王国は南北に分裂し、南ユダ王国には彼の子孫たちが王に就任しましたが、北イスラエル王国には戦争に強い者が実力で次々に王位を簒奪する下剋上の社会が長く続きました。

 ソロモンは王という立場上、知恵を求めましたが、それ以上に信仰を求めるべきでした。彼は偶像礼拝を他国の王女たちと一緒に持ち込ませて主なる神への信仰を軽視したゆえに国を分裂させてしまいました。九州中会では私がいた二十五年間に犬塚伝道所を閉鎖することになりました。そこには信仰熱心な信徒が数人いましたが、彼ら彼女らの子供たちは学歴と職歴こそ立派でしたが、信仰は二の次でした。彼らは農協の幹部だったり、公立学校の校長だったりしましたが、信仰が育っておらず、この世に取り込まれてしまいました。そして、親たちが高齢になって礼拝に出席できなくなった時、子供の頃に通っていた伝道所の閉鎖を仕方のないことと傍観しました。わたしたちも同じことをしていないでしょうか。

 わたしは四中会を経験しましたが、どの中会でも状況は同様で、牧師の家庭でも同じでした。つまり親たちが子供たちに信仰生活よりも勉強や仕事を優先させると、子供たちは信仰生活とはその程度のものかとたかをくくって、信仰から離れてしまいます。反対に親たちが子供たちに信仰生活を優先するように強要すると、子供たちはこの世との軋轢に苦しみ、かえって信仰から遠のいてしまいます。わたしたちは、自分の子供たちが信仰生活と勉学や仕事の両立をするためにどういう苦労をしているかを常に見守る必要があって、子供たちに孤独な戦いを強いてはならないと思います。ある時期、子供たちが学校の行事や部活動の試合や模擬試験などで、日曜学校を休むことも許可しなければならないと思います。わたしは日曜学校の子供たちが中学校に入ると、日曜学校から足が遠のいてしまうことを見て何とかしたいと思っていました。それで長男が公立中学校に入学した時に、三つの小学校の卒業生がその中学校に進学し、ちょうど長男の小学校区の保護者がPTA会長に就任すべき順番なのに引き受け手がいなくて、私がなるよう熱心に懇望されたので、あえて引き受けて学校生活がどのようであるかを一緒に体験しました。その中学校ではバスジャック少年を出したことを反省し、数年来教師たちと親たちが協力して子育てに徹底的に関わっていて、私が会長に就任した年には前年の活動が評価されて九州・沖縄の中学校で唯一の優良PTAとして表彰されました。前会長は佐賀大学附属中学校出身者で佐賀西高校と岡山大学卒業の市役所職員でした。そこでは、PTA会長1名と三小学校区出身の副会長が2名ずつ計6名、他に学年委員が3名、父親委員が3名、母親委員が3名それに学校の校長、教頭、教務主任の計3名が加わって、毎月1回、夜に校長室で会議を行い、行事の計画や校内で起こっていることで気になることを熱心に話し合いました。まず4月中にPTA総会があって、予め選考委員会で選出した会長をはじめとする役員が承認されました。任期は2年間でした。各学年単位の保護者と教師の懇親会を公民館で行いました。5月には小学校の校区ごとの保護者と教師の懇親会を公民館で行いました。次いで高校の総合体育大会が7月にあるのに先立って、6月に中学校の総合体育大会があり、各部が参加するので、放課後の練習前に各部を訪れて飲み物を差し入れる形で激励し、九州大会や全国大会に勝ち上がった部には参加交通費を援助しました。9月には体育祭があって、テント張りや運営に協力しました。10月にはPTA主催のバザーが体育館であり、品物集めや販売を行いました。11月には文化祭があり、各クラス対抗の合唱コンクールで入賞したクラスを表彰しました。翌年1月には中三の生徒達の受験直前の激励会を行いました。もちろん卒業式と入学式にはPTA会長は来賓代表として祝辞を述べました。それに加えて、PTA会報を毎月、作成して、印刷し、各クラス担任から各家庭に届くように配布してもらいました。それに私が加えた活動は、各小学校でしていた本の読み聞かせを中学校でもすることでした。ボランティアを募って毎月1回各クラスに派遣し、ホームルーム後の15分間、自分が推薦する図書の読み聞かせを行いました。これは私の言い出したことなので、退任後も続け、私が島原教会に単身赴任した後は妻に引き継いでもらいました。なんやかんやで1年間に50日以上学校に行っていました。当時の校長は創価学会員でしたが、立派な人物で、どんな部活の試合にも応援に行く人でした。しかし一人の女性教師が着任後3か月で前任校の生徒だった男子生徒と駆け落ちして逮捕されるという前代未聞の不祥事の責任を取って減給処分を甘んじて受けたので、全校保護者説明会を行うなど対策に追われました。この校長とは十年以上経った今も、年賀状を交換しています。二年間の任期が満了した後は三男が小学校五年生になる時でしたので、今度は小学校のPTA会長を引き受けてもらいたいと小学校PTAの選考委員会から指名され、これも二年間の任期を引き受けました。結局、親が子育てに本気で取り組んでいることを身を持って示すことができたと思います。また、妻と三人の息子達とよく一緒に旅行したり、出かけたり、遊んだりしました。友達を一緒に連れて行くこともよくありました。放課後に子供たちが牧師館に友達を連れて来ることもありました。それで、友達は遠足やクリスマスやイースターの時には日曜学校にもよく参加しました。教会の人たちも息子達の友達が日曜学校行事に参加するのに大賛成してくれました。ある子供の場合、小学校教師の母親も教会の行事にかなり長く参加してくれました。また、教会が伝道開始三十周年記念にドイツ製のパイプオルガンを買ってからは、妻の上司の佐賀医大元学長も医師仲間も年1回のクリスマスコンサートに何年にもわたって来てくれました。妻と未信者を含むオルガン仲間が二十年にわたって演奏しました。

 また、教会関連の百人規模の知的障害者施設2箇所で礼拝に通い、利用者が亡くなった時には葬儀を司式しました。計五十人以上の葬儀をしました。

 何か自慢話のようになってしまいましたが、いろいろと地域での活動に参加するうちに、人脈ができて、信用されるようになり、教会に来る人も増えて洗礼を受ける人たちも出て来ました。いつも地域伝道のために祈りました。

 

 この教会でも何らかの地域伝道ができるよう、祈っています。そのためにも聖霊の働きを共に祈りましょう。