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「復活と昇天の証人

 2024年4月21日 復活節後第3主日

聖書箇所:イザヤ書      26章 7節~19節

     ルカによる福音書  24章36節~53節

         日本キリスト教会教師  富樫史朗

 

 先週、私たちはエルサレムから郊外の町エマオの家に帰るクレオパたち二人の弟子たちに復活された主イエスが現れて一緒に歩まれ、道々、御自分について話していることに聞き手として参加されたのに、目が閉ざされていてそれが主だと分からなかったとの箇所から聞きました。彼らはもう日が暮れるからと強いて先に行かれようとしていた主を家に招き入れ、食事の席に着いたときに、パンを裂かれた仕草を見ているときに目が開かれてこの人が復活の主だと気づいたのでした。このように、わたしたちの信仰の目を開いてくださるのは主イエスです。けれども主は同時に姿を消されました。二人は復活の主にお目にかかったことを報告するために、夜道を歩いてエルサレムに戻ってみると、主はペトロにも姿を現されたと弟子たちが言っていました。これらは皆、主が復活された当日に起こったことでした。

 今日の箇所の冒頭で、「こういうことを話していると」とあるのは、エマオから戻った二人が自分たちに現れて、御自分についていろいろと質問されたのに、目が塞がれていたので、それが主だと分からなかったのでした。けれども家に入って食卓に着かれた主がパンを裂かれた様子から、それが主だと分かったのと同時に、主は姿を消されたことを指しています。その時、主イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに、平和があるように」とおっしゃいました。弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思いました。そこで、主は言われました。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」。

 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、主は「ここに何か食べ物があるか」と言われました。そこで、彼らが焼いた魚を一切れ差し出すと、主はそれを取って、彼らの前で召し上がりました。十字架に付けられたときにできた手足の釘跡をお示しになっただけでは弟子たちはその方が亡霊だとの疑いをなくすことができませんでしたが、焼いた魚をお食べになったときに、彼らはようやく疑いを晴らすことができました。

 主はおっしゃいました。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そして主は、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われました。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 主は、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福されました。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられました。彼らは主を伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていました。

 以上の記述から私達は何を聞き取れば良いでしょうか。まず、初代の教会では、実在した主イエスと信仰上のキリストを分けて考えることが起こり始めたころ、実際に実在の主と復活された主の両方にお目にかかって両者は同じだと証言する弟子たちによって新約聖書が書かれたとの学説があります。復活された主は女性の弟子たちに、主を大祭司官邸の中庭で女奴隷にあなたはナザレのイエスの弟子ではないのかと言われた時に三度、否んで主を裏切ってしまったペトロに、そして失意のあまり家に帰ろうとしていたクレオパとその妻に、そして、復活された主が真ん中に立たれたのに、喜びのあまり信じられなかった使徒たちに、それぞれ寄り添うように姿を現されたのです。わたしたちも失意のどん底にあったときに神と出会った方は少なくありません。わたし自身も、その中の一人だと思っています。

 次は復活の主による宣教命令です。宣教命令というと、わたしたちはマタイによる福音書第28章18~20節の大宣教命令と呼ばれているものが有名ですが、ルカによる福音書にも、今日取り上げた46~49節にも「あなたがたは証人となる」という分かりにくい形ながら、宣教命令があります。それはエルサレムから始めて全世界に及びます。我が国が福音宣教の最終目的地だとはどこにも書かれていません。主イエスの言葉にもありますように、世界を視野に入れての宣教に備えてわたしたちがすべきことは旧約聖書を学んでメシア預言としての旧約聖書とそこに預言されていたことが成就したことの証しとしての新約聖書の関係を学ぶことです。第二次世界大戦の前、ドイツでは元々はユダヤ教の聖典であります旧約聖書を軽んじ、新約聖書だけを学ぶことがドイツ的キリスト教だと主張して、世界の大半を敵に回す戦争とユダヤ人大虐殺を引き起こしました。我が国においてもそのような傾向がありました。つまり三位一体の神への信仰よりも、山上の説教などに表された道徳に重きを置く聖書の読み方を奨励しました。それはヒトラーへの服従や国家神道との軋轢を避ける狙いがあったことと考えられます。反対に戦争中の我が国では、無教会の人たちが北イスラエルはアッシリアとの戦争に、南ユダ王国は新バビロニアとの戦争にそれぞれ負けるがそれらは神から与えられた一時的な罰であるなどとの預言がある預言書を熱心に読んでいたことが矢内原忠夫などの著作から知られています。その結果、プロテスタント諸教会のように戦争支持に傾くことが少なく、実際、戦後の歴代文部大臣には無教会の出身者が多かったようです。例えば今日、旧約聖書として選びましたイザヤ書第26章7~19節には、日本聖書教会によって「復活を求める祈り」という見出しが付けられていますように、最後の19節には、

  「あなたの死者が命を得、

   わたしのしかばねが立ち上がりますように。

   塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。

   あなたの送られた露は光の露、

   あなたは死霊の地にそれらを降らせられます。」

 あなたの死者とは誰のことでしょうか。神の御子、主イエス・キリスト以外にはわたしには思い当たりません。さらに「光の露」とは聖霊を思い起こさせるものではないでしょうか。

 わたしたちの宣教活動も過去への反省に立って行うべきだとわたしは思うので、主日礼拝では旧約聖書と新約聖書を並べて読んで講解しますように、また祈祷会の時の奨励では創世記第1章から始めましたように、ともすれば軽視されてきた旧約聖書に力を入れて読もうとしています。わたしはこれまでの任地の教会でもそのようにした結果、聖書の読み方が変えられ、福音がより良く説明できるようになったと思いますので、それを伝授させていただきます。ともに新しい池田教会を築いていきましょう。